2002年市制の千葉県北西部に位置する富里市は、その広大な原野と政治の中心「江戸近郊」ということもあり「野馬」を起点とした土地の歴史が多く刻まれた土地です。この記事では千葉県内在住のレポーターが富里市の成り立ちを調べ、紹介しています。
富里市内の遺跡
富里市には根木名川、高崎川などの源流があり、そこを中心として旧石器時代から人が住み付いたと言われているそうです。東内野遺跡(ひがしうちのいせき)は千葉県を代表する旧石器時代の遺跡として全国的にも有名であり、当時では珍しい石器の形が発見されたことから、遺跡の名前を取って「東内野型尖頭器(ひがしうちのがたせんとうき)」という名前が付けられたそうです。(現在では「有樋尖頭器(ゆうひせんとうき)」という名でも呼ばれています。)この東内野遺跡では人々の生活領域に沼があったとも言われており、そこに集まる動物や人を中心に集落が形成されたとも考えられているようです。
―この沼は雨が貯まってできたと言われていて、まるでオアシスのような存在だったそうですよ!
富里にはもう一つ、南大溜袋遺跡(みなみおおためぶくろいせき)という県指定史跡もあります。この遺跡は旧石器時代から縄文時代の移行期、または縄文時代の初期とも言われており、石器を使って大型の槍や鉈(なた)を作って狩りをしていました。石器の材料は他県から運び込まれたものだと言われているそうです。まさか、縄文時代からすでに他県との交易があるなんてロマンを感じますね。 富里市内には奈良・平安時代以降も人々の生活の様子を垣間見られる中沢塚越遺跡や吉川遺跡が点在し、新橋、中沢、立沢、高野、高松日吉倉、久能、大和、根木名という集落が形成され現在に至っているものと考えられています。
―富里市にこんなに遺跡がたくさんあるなんて調べるまで知りませんでした!
富里市と馬
富里市と聞くと「馬」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。その始まりは平安時代の官牧(かんぼく)という律令制で規定された国有の牧場に端を発するとされています。江戸期になると幕府が下総地方へも関与を強め、元々「野馬(やうま、野生の馬のこと)」の管理が盛んだったこの富里の地で「佐倉七牧(さくらしちまき)」を発展させることとなりました。ここで管理する「牧(まき)」では最盛期には約3,000頭もの馬が放牧されていたそうです。広大な土地を持つ富里の地だからこそできた大事業だったのでしょう。幕府への献上のために行う「野馬捕り」は1年で最も盛大な行事であったそうです。
―現代から考えると、野生の馬を捕まえたり放牧させるなんてスケールが大きいですよね。普段何気なく通っている道の付近に馬が放牧されていたと想像すると、歴史って重みがあるな~と実感します。
明治維新後
佐倉七牧は職を失った武士らの入植(開拓のために移り住むこと)により開墾が行われることとなりました。開墾に伴い馬牧は減少していき、江戸時代に最盛期を迎えた馬牧は消滅しましたが、今でも富里市内には「駒走」「野馬木戸」などといった馬に由来する地名も多く残っています。佐倉七牧はその後印旛県に引き継がれた後に下総牧羊場と取香種畜場が合併し、「下総種畜牧場」から「下総御料牧場」と名称が変更になった後は優秀な競走馬を多数輩出しました。今でも市内には十数件の牧場や乗馬クラブがあります。1889年(明治22年)施行の町村制の際、13村が合併して「十三の里」(里はむらの意味)と言っていたことから「十三里」→「とみさと」→「富里」となりました。
―確かに「馬」がつく地名が多いのも頷けますね!13の村が合併したから「とみさと」なんですね。
まさか富里市に広大な「馬牧」があったとは知らなかった筆者。富里市の歴史は本当に深くて、今度富里市の近くを通ったら過去に馬牧があった雰囲気を感じてみたいなと思いました。