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我孫子市の歴史【多くの文化人が愛した「北の鎌倉」】

千葉県の北西部に位置する我孫子市は、江戸時代より水戸街道・我孫子宿の宿場町として栄え、利根川や手賀沼の豊かな水源から稲作や野菜の生産が盛んでした。また志賀直哉、武者小路実篤など文化人が移り住み、「北の鎌倉」と称された街でした。画家の山下清が下宿した弥生軒もここにあります。多くの文化人が愛した我孫子市のあゆみをふりかえってみましょう。

多くの文化人が好んだ「北の鎌倉」

 我孫子市域には約3万年前の旧石器時代より人類が住んでいた痕跡が発見されています。市内には100基に上る古墳群があり、古い歴史を有しています。
 江戸時代には幕府の直轄地となり、利根川の水運が栄えました。現在の我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる水戸街道沿いに我孫子宿ができたことで、交通の要衝として大きく発展しました。明治時代に入り、1886年(明治29年)には常磐線が開通しました。鉄道や自動車、汽船などの交通機関が発達するにつれて、利根川の水運は衰えましたが、平地での稲作や丘陵上での野菜の生産が盛んになりました。

 市の南に位置する手賀沼は昔から風光明媚な場所として知られていました。東京からの交通の便が良くなった結果、様々な文人・実業家などが手賀沼の景観に魅せられ、別荘地としても注目を集めると、大正時代から昭和初期にかけて我孫子は「北の鎌倉」と呼ばれるようになりました。移り住んだ文化人には志賀直哉をはじめ、武者小路実篤、柳宗悦がいました。我孫子は白樺派の拠点にもなり、現在も多くの旧宅や史跡が遺され「志賀直哉邸跡」や「旧村川別荘」、「旧武者小路実篤邸跡」などは、その歴史を今に伝えています。

―旧村川別荘は静かな竹林の中に佇んでいます。開館中はボランティアによる市民ガイドが常駐し、旧村川別荘を案内をしてくれます。個性光るガイドも楽しみのひとつです♪

関東屈指の名コース我孫子ゴルフ倶楽部

 1929年(昭和4年)には嘉納治五郎や杉村楚人冠の奔走により我孫子ゴルフ倶楽部が創立しました。
嘉納治五郎は「柔道の父」と呼ばれる人物で、柔道の普及に努めながら、教育の発展やオリンピックによる世界平和の実現にも力を注ぎました。嘉納治五郎にとって我孫子はゆかりのある場所です。手賀沼と富士山を眺望できる我孫子の地を気に入り、別荘を建て休暇を過ごしたといいます。

 嘉納治五郎の甥が作家・柳宗悦であり、柳に続いて、志賀直哉や武者小路実篤といった作家が移住してくると、我孫子市は文化人の創作活動に打ちこめる別荘地として有名になりました。杉村楚人冠は、明治末期から昭和前期に活躍したジャーナリストで関東大震災を機に我孫子に移住し、地域の発展にも貢献した人物です。この2人が力添えして創立された我孫子ゴルフ倶楽部は関東屈指の名コースと言われ、我孫子市出身のプロゴルファー林由郎の弟子である青木功や尾崎将司などは「我孫子一門」と呼ばれています。

我孫子市の誕生

開業時の我孫子駅

 1955年(昭和30)我孫子町と布佐町、湖北村が合併し我孫子町となり、1970年(昭和45年)に千葉県で22番目の市制施行により我孫子市が誕生しました。当時の人口は4万9千人ほどでした。我孫子宿や布佐の市街地以外の場所は、ほとんど農業地域でしたが、1970年代からは住宅地の開発が進みJR常磐線・成田線の開通によって都心のベッドタウンとして人口が増加しました。

 2015年(平成27年)には上野東京ラインが開業し、我孫子駅から東京駅まで約35分で到着するようになり、利便性が増しました。人口は13万人(平成31年)を超え、緑豊かでありながら都心へのアクセスも良い文化都市として歩みを進めています。

 我孫子市になって50年の節目を記念して、市ではさまざまな協賛事業が企画され我孫子市観光無料アプリ「あびこ巡り」が完成しました。「あびこ巡り」は「食べる」「観る・遊ぶ・体験する」「買う」など、九つのテーマに分けて我孫子市を紹介しています。

―我・孫・子と書く「我孫子」。親子3世代がこの地に住み、物語が生まれて、続いていく町を目指し、住みやすく安全なまちづくりが進められています。

この記事を書いた人

さわ@チイコミ

チイコミ編集部在籍。千葉県に住み始めて約15年。2人の元気娘を育てています。趣味は水引アート。海外ドラマを観るのも大好きです。地域の情報をお届けしたいと思います!

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