春には梨の花が咲き誇り、夏の終わりから秋へと移りゆく頃に収穫を迎える梨畑が広がる豊かな自然と、住宅が調和したまち白井市。そんな白井市のあゆみを振り返ってみました。白井市にゆかりのある人も、そうでない人も、白井市の悠久の歴史に触れてみませんか?
人々の暮らしのはじまり
千葉県を形づくる海岸線は、ずっと今の形状ではありません。かつては白井の地も海底でした。およそ5万年前からの最終氷期に陸地化が進んだ箇所に火山灰が堆積し、白下総台地が誕生しました。縄文時代には縄文海進とよばれる海水面の上昇により、千葉県北部から茨城県南部まで利根川の低地沿いに「古鬼怒湾」という内海になりました。手賀沼や印旛沼はその入り江の一部です。
豊かな水と肥沃な土壌に恵まれた白井で人々の生活が始まったのは旧石器時代、今から約2万7千年前といわれています。以降、縄文時代~古墳時代にいたる各時代の遺跡が確認されており、手賀沼や神崎川沿いの台地上にあるムラの跡からは石器や土器が、平塚地区の古墳からは直刀や耳飾りなどの副葬品が出土しています。
下総国に含まれた奈良・平安時代のものとおもわれるムラの跡も複数発見されています。平安時代初頭の竜神伝説が残る「清戸の泉」は千葉県指定史跡。干ばつにより里人が餓死寸前という事態に、諸国を旅している僧の勧めで竜神へ祈祷したところ、大雨と共に小さな青竜が落ちて来たという伝説が伝えられています。
― 小さな青竜が祀られている清戸の泉は、船橋カントリークラブの一画にあるとのこと。ゴルフ場に申し出れば見学も可能とのことなので、神秘的な竜神伝説の泉。ぜひ一度見てみたいものです。
鎌倉時代~江戸時代
鎌倉時代になると白井市を含む下総国は北条実時の支配下を経て、南北朝の動乱後には千葉氏の配下となります。千葉氏は源平合戦にも参加した、平安時代末期~戦国時代末期まで下総国や上総国の一部を支配した関東の名族です。房総地方の政治・経済・文化の発展に大きく貢献しました。
その頃には白井を含む小金原周辺に千葉氏の軍用馬の牧があったとされ、重要な地であったことが推測されます。当時の古文書には、平塚郷や富谷郷(後の白井郷)の地名があり、現在の白井地区の礎となるムラが誕生しつつあったと考えられています。
江戸時代に入ると、白井は江戸から十里(約40㎞)内に位置したことから、平塚地区を除く大半の村は旗本領となりました。平塚地区は譜代大名井上氏が領主を務める高岡藩の領地となりました。その初代井上政重は初代惣目付としてキリシタン禁制の中心人物として知られていますが、政重自身も一時期キリシタンであったともいわれていますので、一体何があったのか想像をかき立てられます。
市内の平坦な台地の山林原野は、江戸幕府の軍用馬を育成する御用牧として、野馬と呼ばれる半野生の馬が放牧されていました。当時、軍備強化には馬は重要な物資でした。十余一・桜台地区は印西牧、冨士地区は中野牧が設置され、その他東葛地区の牧とあわせて小金牧と呼ばれています。年に一度、牧で行われる野馬捕りの様子が描かれた屏風絵「印西牧場之真景図」は、当時の様子を物語る貴重な資料として市指定文化財となっています。ぜひ郷土資料館に足を運んでみてください。必見です。
また、江戸時代には利根川を利用した海産物を銚子から江戸へと運ぶ輸送路が整備され、白井の地はその中継地として海産物交易において大きな役目を担い始めます。江戸の台所を支える重要な地であったといえます。木下河岸で陸揚げされ白井経由で行徳へと向かう木下道(行徳道)、手賀沼に入り平塚や富塚などを経て松戸へと向かう松戸道などは、新鮮な海産物が運ばれるため鮮魚道(なまみち)とも呼ばれ、多くの旅人たちも行き交じり賑わいをみせていました。松戸道にある、市内唯一の国指定重要文化財「滝田家住宅」は、荷受に関わっていたと考えられています。
― 白井の歴史を物語る貴重な資料 印西牧場之真景図は、明治3年 消えゆく牧を惜しんで野馬捕りの様子を描いたそう。色とりどりの毛色の馬がイキイキと描かれています。
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近代 白井町から白井市へ
近代に入ると牧は払い下げられ、開拓が始まります。明治に入ると白井は下総県に属し、その後、管轄が葛飾県、佐倉藩、印旛県、そして明治6年(1873年)に千葉県へと変わりました。翌年には所沢・野口が合併し木村が、長殿・法目・富ヶ谷・富ヶ沢が合併し復村が、七次・中木戸・白井木戸などが合併して根村が誕生。現在の大字のもととなる行政区画が成立しました。さらに明治17年(1884年)に白井橋本村外6ヶ村連合村が成立、明治22年(1889年)市制町村制時に白井谷清組合村が誕生しました。大正2年(1913年)に白井村が成立、最終的には戦後昭和29年(1954年)の昭和の大合併によって永治村の一部と合併し、白井村がほぼ現在の範囲に近い形となりました。
昭和39年(1964年)に白井は町制へ移行。以後開拓が進み、昭和40年代には国道16号線や白井工業団地、千葉ニュータウンの造成が行われ、昭和54年(1979年)に千葉ニュータウンの入居が開始されました。以降は人口も増加。平成13年(2001年)白井は市制に移行し、現在に至ります。市を東西に横断し、都内へ通ずる北総鉄道の各駅を核に発展を続けています。一方、市内には田畑や林も多く残り、自然の豊かな田園都市として市民に愛されています。
― ちなみに、1955年まで千葉県下には同名の村、千葉郡白井村(こちらは“しらいむら”と読みます)が存在し、現在は千葉市若葉区泉町となっています。白井市は “しらい”じゃないよ。“しろい”だよ♪
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白井市の歴史を振り返ると、今も昔も豊かな土壌と江戸(東京)に近いという地の利を活かし、人々が生活してきたことがわかります。広大な牧に馬たちが走り回っていた様子を思い浮かべるとロマンを感じますね。