下総国の国府が置かれ、古くから栄えてきた市川市。ここでは市川市のあゆみについてご紹介します。

下総国の政治・文化の中心として発展
市川市に人が住み始めたのは、旧石器時代からといわれています。当時の遺跡には丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡などがあります。縄文時代の遺跡は約60ヶ所とされ、その遺跡数から縄文時代には非常に栄えた地域であったことがわかります。
大化の改新以降、現在の里見公園に下総国国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心として発展し、市川一帯の歴史を担ってきました。市川市の北部に広がる国府台という地名は「下総国国府」があったことに由来しています。
奈良時代、現在の国府台駅近くに広がる真間に手児奈(こてな)という絶世の美少女がいたとされ、多くの男性が手児奈に恋心を抱きました。男性たちの争いが絶えないことを嘆いた手児奈は、最後には身を投げて亡くなってしまうという悲劇の伝説は、遠く都にまで届き、万葉集に詠まれるほど有名でした。行基が手児奈の伝説を聞き、霊を弔うために「求法寺(現在の弘法寺)」を建立したとされ、手児奈の霊は手児奈霊神堂に祀られています。
交通の要衝の地であった市川は、歴史上、数々の合戦や戦乱の舞台となってきました。平安鎌倉時代には平将門の乱、源頼朝の軍勢の立て直し、太田道灌が陣を置くなど戦の拠点となり、戦国時代には国府台合戦の舞台にもなりました。平安時代に建てられた「葛飾八幡宮」は下総国総鎮守として武将に厚く信仰され、現在も多くの人が訪れます。また水運に恵まれた市川は古くから人と物が行き交う拠点でした、江戸時代には渡し船「市川の渡し」が定船場になると、その後関所も整備され、さらなる発展を遂げて物流の中心になりました。
―手児奈の伝説は千年以上の歳月が経った今も、悲しい恋物語として人々の涙を誘います。手児奈霊神堂は良縁や安産祈願などで訪れる人が多く、地元の人たちに愛されている場所だそうです。
軍隊の街から文教の街へ
明治以降、市川は軍都として栄えます。国府台は都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地であることから陸軍教導団や陸軍教導団病院がおかれ、周辺一帯は軍隊の街として発展を遂げました。
1934年(昭和9年)東葛飾郡市川町、八幡町、中山町、国分村が合併し、千葉県では、千葉市、銚子市についで3番目に市制が施行され、市川市がスタートしました。
終戦後、陸軍教導団病院は現在の「国立国際医療センター 国府台病院」になり、軍隊の跡地は東京医科歯科大学・千葉商科大学・和洋女子大学などのキャンパスに、また筑波大学附属聴覚特別支援学校、公立高校としては比較的有名な千葉県立国府台高等学校も設置され学校が数多く立地する文教の街・学園都市として生まれ変わりました。その変化に伴い東京近郊の住宅地として急速に宅地化が進み、市制施行当時、約4.1万人であった人口は昭和30年代後半から昭和53年頃まで急増していきました。
―R3年6月現在、市川市の人口は49万人を超えています。市川市としてスタートしてから人口は10倍以上、都心に近く住みやすい場所として人気の街ですね。
黒松が彩る街並みは、文人に愛された
1894(明治27)年に総武鉄道(現・JR総武線)の市川駅が開業したことで、交通の利便性が向上しました。1914(大正3)年には京成電気軌道(現・京成本線)の江戸川駅から市川新田(現・市川真間)駅の間も開通し、徐々に物流手段は舟運から鉄道に替わっていきます。また、日本毛織 中山工場などの大工場が進出し、市川は産業の中心としても大きな役割を持つようになりました。後にこの工場跡地に「日本毛織」直営の「ニッケコルトンプラザ」が完成し、現在市川を代表するショッピングモールとなっています。
市川真間や八幡は東京都内の富裕層に別荘地として人気を集め、市の木である黒松が彩る街並みは、その後高級住宅地として知られるようになりました。環境に恵まれた市川市は文人にも愛され、永井荷風、幸田露伴、北原白秋、井上ひさしなど多くの文人が暮らした街でもあります。現在は「市川文学の散歩道」として各地に市川ゆかりの文学者作品の紹介板が桜の樹の下に配され、彼らの足跡を感じられるスポットをめぐることができます。
2004(平成16)年には「水木洋子邸」の公開がはじまり、2013(平成25)年7月には市川市ゆかりの作家の作品などを展示した「市川市文学ミュージアム」もオープンしています。次世代のために、未来の子どもたちのために、暮らしやすい環境のために、市川市は現在も発展し続けています。
―市川市は古くから地域の中心地として栄え、豊かな自然のもとで伝統や文化が育まれてきたんですね。市川市のキャッチコピーは「いつも新しい流れがある 市川」。素敵ですね。