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鎌ケ谷市の歴史【鎌ケ谷宿の繁栄から初富開墾の歴史】

豊かな農地や緑の環境をもち、梨の名産地としても全国にその名を知られる鎌ケ谷市。ここでは鎌ケ谷市の歴史を振り返ってみたいと思います。

鎌ケ谷のはじまり

鎌ケ谷市マスコットキャラクターかまたん

 

 

鎌ケ谷市域に人が住み始めたのは、今から23,000年前の先土器時代といわれています。縄文時代の大堀込遺跡や根郷貝塚、中沢貝塚などの遺跡が発見され、竪穴式住居跡をはじめたくさんの土器や石器などが出土しています。
古墳時代の遺跡には一本松遺跡や猿根台遺跡があり、中沢川を望む中沢地区周辺に人々の暮らしがあったとされます。
平安時代の双賀辺田遺跡からは、住居跡17軒、高床式建物跡14軒をはじめ、墨書土器など数々の貴重な遺物が発見されていることからその周辺の村は、特別な任務を与えられていたとされています。
鎌倉時代は千葉氏の勢力下にあり、下総国相馬郡(現在の我孫子市、柏市の一部、沼南町、鎌ケ谷市の北部)を支配していたのは千葉師常(相馬次郎)でした。
鎌ケ谷市内には佐津間にお城の跡が残っています。佐津間城は相馬氏の領地だったことから、相馬氏に関係の探い人物が城主だったとされています。他にも中沢城というお城もありますが、場所は特定されていません。
江戸時代、鎌ヶ谷宿は、鹿島灘の鮮魚を江戸に運ぶ木下(きおろし)街道の中継地として賑っていました。木下道は行徳や八幡(市川市)と木下(印西市)を結ぶ重要な脇街道で、銚子や鹿島難でとれた鮮魚を江戸・日本橋まで運ぶルートでした。鎌ケ谷村は街道の要衝にあたり、利根川の水運が盛んになるにつれ街道の往来も増加し、しだいに宿場として繁栄しました。

―鎌ヶ谷宿は木下街道沿いの大仏十字路から延命寺までの500mほどという短い区間だったそうで、最盛期には、問屋が1軒、旅籠屋が7軒と賑やかだったのがわかります。

鎌ケ谷大仏は鎌ケ谷宿繁栄のシンボル

鎌ケ谷大仏(鎌ケ谷市教育委員会提供)

現在、鎌ケ谷宿の面影は残っていませんが、北側の外れにある鎌ケ谷大仏だけが、いまも変わらずその姿を守っています。鎌ケ谷大仏は安永5年(1776)に鎌ケ谷村の商人・大黒屋文右衛門が、先祖供養のために江戸神田の鋳物職人多川主膳につくらせたもので、高さ1.80m、台座含めて2.30mの鋳造青銅製の釈迦如来像です。
開眼供養の際、50人余りの僧侶を招き、江戸の高級料理屋八百膳に300人分の料理を用意させたというようすは「つぼには白銀、お平に黄金、皿にゃ小判でとどめさす」という唄になったほど盛大なものでした。

鎌ケ谷宿には、たくさんの文人墨客が訪れ、1687年(貞享4年)には、松尾芭蕉が弟子を伴い「鹿島紀行」の旅の途中に通ったといわれています。
また、江戸時代の画家として著名な渡辺崋山は1825年(文政8年)に利根川を旅したときに宿を通り、「四州真景図」に「釜原」の絵を描きました。

その後、鎌ケ谷宿は時代の流れとともに衰退していきましたが、鎌ケ谷大仏は住民から尊びあがめられ、明治時代の廃仏毀釈を乗り越え、太平洋戦争中の金属供出も拒否して守られてきました。
1972年(昭和47年)3月、鎌ケ谷市の文化財に指定され、現在でも大仏は福田家が所有・管理し、駅前通りに面した墓地の中に鎮座しています。

―当時は鎌ケ谷の広大な原野の中を街道が通っていたようです、現在の賑やかな街並みとは全く違う景色が広がっていたんですね。

初富開墾から現在の鎌ケ谷市になるまで

明治維新後、政府の方針で東京にいる失業者や生活に困っていた武士によって、下総の小金牧と佐倉牧の地が開墾されました。
開墾は明治2年(1869)最初に開墾したのが初富(鎌ヶ谷市)で、初富の名は、最初に入植が行わたのを記念して付けられました。
次いで二和・三咲(船橋市)となり、以下、豊四季(柏市)、五香・六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(佐原市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市)の順で進められ、地名となりました。

開墾作業は多数の離散者が出たり、土地騒動が起こったりするなど困難を極め、開墾に従事した人々は苦しい生活を強いられました。北初富の光円寺には、その子孫が先祖を偲び励まし合うために土地紀念講を作りました。

明治22年(1889)佐津間・粟野・初富・鎌ケ谷・道野辺・中沢に、印旛郡根村から軽井沢を加え、合計七つの地区を合わせて新しく鎌ケ谷村が誕生しました。
昭和33年には、東葛飾郡鎌ケ谷村は町の標準人口8,000人を超えていたこともあり、周辺の村々との合併もなく町制が施行されました。東京近郊ということもあり人口は増加し続け昭和40年には人口4万人を超え、昭和46年9月1日に県下24番目の市となりました。

“やがて故郷に変わる街”鎌ケ谷に

鎌ケ谷は梨の名産地

鎌ケ谷市は、着実な人口増加により平成8年には10万人を超え、令和元年には、11万人となっています。こうした発展の中にありながら、今も豊かな農地や緑の環境をもち、梨の名産地としても全国にその名を知られています。

鎌ケ谷のブランドコンセプトは“育つまち”です。「育む」ための土壌を作り、市・市民・企業がひとつになって、鎌ケ谷で生きるよろこびを、大きく成長させていく。鎌ケ谷市はその決意を据えて、未来を切り開いています。

―鎌ケ谷市のマスコットキャラクターかまたんは梨と野菜の妖精なんだとか。鎌ケ谷は特産品の梨や新鮮で美味しい野菜がいっぱいとれます。特産品について「鎌ケ谷市の住みやすさ」でもご紹介しています♪

この記事を書いた人

さわ@チイコミ

チイコミ編集部在籍。千葉県に住み始めて約15年。2人の元気娘を育てています。趣味は水引アート。海外ドラマを観るのも大好きです。地域の情報をお届けしたいと思います!

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