市原市は海や川、湖などの豊富な水辺、のどかな里山の風景、幻想的な夜の工場地帯と、様々な風景を楽しめる街です。古くは上総国府が置かれ、文化や行政の中心として栄えてきました。
近年ではチバニアンで注目を集めた市原市。そのあゆみを振り返ってみましょう。
上総国府が置かれ、文化や行政の中心として栄えた街
市原市域には、約3万5千年前から人が住み始めていたとされ、ちはら台から市内最古の石器が出土しています。
温暖な気候と海や山の恵み豊かな土地からは、縄文・弥生時代を通じて遺跡がおよそ2,500か所、貝塚が45か所確認されています。
3世紀前半には東日本最古級の古墳、神門5号墳(惣社)が造られ、5世紀中頃の稲荷台1号墳(山田橋)からは「王賜」銘鉄剣が出土しています。
房総の地は良質の麻(昔は総と呼ばれていた)がたくさん採れたことから、総の国と呼ばれました。
大化の改新の後、市原には上総国府が置かれ、文化や行政の中心として栄えました。そのことを象徴する歴史的文化遺産として史跡上総国分尼寺跡(しせきかずさこくぶんにじあと)が有名です。その発掘調査では屋根瓦ほか、様々な遺物が発見されました。
江戸から大正時代にかけては、養老川は、物資輸送の幹線として利用されました。
明治22年(1889年)、大規模な町村合併によって172村が1町20村に統合されます。当時の市原郡の人口 58,625人でした。
そして明治45年(1912年)3月に蘇我・姉ヶ崎間に鉄道が開通したのを皮切りに、大正14年(1925年)3月には小湊鉄道の五井・里見間が、昭和3年(1928年)5月に中野まで全通し蒸気機関車が走りました。
昭和32年(1957年)から五井・市原地区海浜の埋め立て造成が行われ、全国有数の工業地帯と発展していくことになります。
昭和38年(1963年)5月、南総町と加茂村を除く五井、市原、姉崎、市津、三和の5町が合併して市原市が誕生。当時の人口は72,788人でした。
さらに昭和42年(1967年)10月、南総町、加茂村が合併して現在の市原市の姿になりました。
戦後になると東京湾岸のさらなる埋め立てが進み、石油産業などの化学工業を主とするグローバル企業が進出、コンビナートが建設されました。
工場の拡大に伴い住宅地も増え、1976年には人口20万人を突破しました。
平成から令和にかけて 魅力を増す市原
平成に突入し市原市は中央武道館、保健センター・急病センター、高滝ダム、中央図書館などが完成し様々な施設を充実させ、住みよい街に変化しています。
1992年にはジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)のホームタウンに決定し、スポーツでも盛り上がりをみせていきます。
1995年 館山自動車道が開通し交通の便もよくなりアクティブライフが叶う人気の街になりました。
2011年には市原市最大のお祭り「上総いちはら国府祭り」が初開催され、毎年多くの人が訪れ、ふるさと市原に対する誇りや郷土愛を育むイベントとなっています。
他にも2014年には市原市の里山や閉校した学校、小湊鉄道の駅舎などを舞台に、世界各国のアーティストによるアート作品を展開する芸術祭「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス」が開催され3年に1度トリエンナーレ方式で開催する予定です。
2020年は、更級日記の作者である菅原孝標女が、上総国府のある市原市から京に旅立って千年の節目の年であることから、「更級日記千年紀」と題し、市原市観光協会などがさまざまなイベントも実施されるなど、市原の魅力を国内外に発信し盛り上げる活動を続けています。
地球史に刻まれた市原の地層「チバニアン」

令和2年(2020年)1月17日、世界の地質年代に「千葉」の名が入った「チバニアン」が認証されました。
「チバニアン」の地層は小湊鉄道の月崎駅から徒歩約20分の場所、養老川で削られたがけにあります。恐竜などのいた何億年も前の古い地層は、造山運動により地表にも現れることが多いのに対し、77万年前は比較的『新しい時代』なため、地球の隆起効果が追いつかないといいます。
磁場逆転を何回も繰り返してきた地球が77万年前に現在の磁場になった時の地層が、地上に露出しているという大変珍しい場所です。
これにより約77万4千年前~約12万9千年前(新生代第四紀更新世中期)の地質年代の名称が「チバニアン」と呼ばれることになりました。
GSSP(国際境界模式地)は世界で74箇所目となり、日本では初めての認定です。
―地球の歴史の1ページに日本の地名が刻まれる快挙となり、大きな話題になりましたね!